猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

マッチングアプリを試した

人生で初めてとあるマッチングアプリを入れた。もう長いこと彼女と呼称できるような存在もおらず、なんなら恋愛とは縁遠い生き方をしてきたような人間が、ここにきてマッチングアプリに登録したのは、結婚願望があるとか、人恋しいとか、周りが結婚し始めた焦りだとか、はたまた十の位があがっても孤独な自分自身に危機感をおぼえたとかそういうことではなく、恋愛というカテゴリにおいて己の市場価値がどの程度あるのか、ということをなんとなく知りたくなったというのがきっかけだった。端的に言えば興味本位という4文字に集約されてしまう。転職する気もないのに、己のキャリアが客観的視点でどれくらい評価されるのかを知りたくて転職サイトに登録しているのと同じである。

そうして入ったマッチングアプリの画面からはいろいろな女性の存在が飛び込んでくる。当たり前だが、私がこんなアプリを始めていなければ、知ることのなかった人たちだ。職業も住んでいる場所も価値観も趣味もまるで違う人達がたくさんいる。もちろんこういった人はただ候補として画面に出ているだけで、なにか関わりができたわけでも、繋がるということもないわけだけれど、でも確かにこの電脳空間の向こう側に存在する人が私と同じようにアプリを入れ、アカウントを作り、お気に入り(かもしれない)写真を登録し、いろんな項目や自己紹介を書き、アカウントとして成り立たせているのだということを考えると、機械的な中に人の手が介在していることへの名状し難い神秘のような何かを感じてしまって、少し面白かった。それと同時に、この人達は本気で将来の交際相手をこの電脳空間の中で探しているのだという当たり前の事実に気付かされ、私は興味本位で登録したことを恥じるに至った。

 

親や先祖には申し訳ないが、恐らく私はこのまま独身を貫き、一人において人生を終えることになるだろうと考えている。それは過去、まだ今よりも恋愛的市場価値が高かったかもしれない時に、その価値が「時間」という、時限的で揮発性の高いものによってもたらされていたことを何よりも理解し、一人の雄としてモテるために然るべき行いをして、徳や魅力や自己肯定感を積み重ねるという、現代日本に生まれ落ちた人間として当然なされるべき段階を踏むことを真っ向から突っぱねたつけが回ってきたからだ。トラック何周も遅れを取ったかどうかわからない中でスタートをきれるような、ある意味での強さはいつかのどこかで捨て去ってしまったし、現状を悲劇や不幸として片付けて適当に慰めるのではなく、単なる自業自得であるということを戒めることが自分にとって重要なのだ。半ば自傷行為のように。

勿論なにか奇跡のような出来事の連鎖によって、この状況を劇的に打開することがないわけではないかもしれないが、そんな土台無理な願望を運で解決できないかと願うというのは、買ってもいない宝くじの番号が当たることを祈るくらい無意味なだと思うし、そもそも真っ先に運に頼ることが頭を過るほどには怠惰だ。これについてはM-1グランプリモグライダーの芝さんが言っていた「頑張れねえ奴が神社行ったってしょうがないだろ」というツッコミをもって代弁としたい。

 

今年のM-1グランプリで錦鯉が優勝したのは、2人のネタが最も面白かったというのもそうだが、何よりも2人の中で芸人として、「錦鯉」というコンビとして輝ける道筋を見出し、もがき続けたからだと思っている。
そして最も重要なことは、その道筋がどこにあるのか、そもそも見えるのかどうかは誰にもわからないということだ。そういう中で情熱を絶やさず、己の芸を磨き、星の数ほどもあるだろう他のコンビと競い続ける。こうした並大抵でない努力を続けなければ人並みに食い扶持を得ることも許されない「芸人」という職業は、価値とか損得勘定に流されやすい私のような人間にこの上なく向いてない職業だと思ったし、そして、50という年齢で戴冠した長谷川雅紀さんを見て誰かが、あるいは本人が口にしたであろう「諦めなければ報われる」という言葉は、この上なく鋭く美しい刃となって私の心を貫くのだ。