猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

彼岸にて

早くも2020年の半分が終わったが、その間は激動だったようで何も変わっていない。できることが減った分、新たにできることは増えず、玉葱の皮のように自分の身の回りのものたちが次々と剥ぎ取られ、ちっぽけで何ら意味を持たない芯と否が応でも向き合わざるを得なくなっているという点で、残酷な半年だったし、空虚な半年だった。自分が今までライブに行ったり、ベイスターズを応援したり、たまに技術系の本を読んだりして知った気になったりしていたのは、中身も価値もたいしてないような自分の本質を周りに知られないように糊塗するためにすぎないからである。

 

緊急事態宣言が解除されてからというもの、世間(ここで言う世間とはテレビの向こう側であり、SNSのタイムラインによって形成される世界である)は感染者数の増加にてんやわんやしているように見える。政府や自治体、歓楽街へ繰り出す人々に対するヘイトも散見される。九州や中部での豪雨による被害が陰鬱した論調に拍車をかける。どれだけ多くの「亡くなる必要がない」人々が亡くなったか、「失う必要のない」ものが失われたか、想像するのは難しくない。情報は即座に生々しい姿で、かつ鮮明に自分の眼前に飛び込んでくるからだ。祈ることもできないかわりに、不必要に自分を苛む機会は増えた。

だからSNSは見るのをやめた。当事者にとっては人生が(否応なく)変貌している渦中なのかもしれないが、然るべき手続き、然るべき治療によって回復することを願うだけで(もちろん些細だが募金はする)、それ以上自分になんの意味ももたらさないからだ。感染者が増えたとしても、どこかの川が氾濫したとしても、それらを気に病んだところで、なにか変わるわけでもない。もし自分が三日三晩絶食し、己を賭して祈りを捧げることで、新規感染者数が0になり、すべての患者が救われ、土地や家財が元通りになるというなら、喜んでやると思うが、実際はそうではないからだ。

ただでさえ自分の「なにもなさ」に辟易としている中で、あふれる情報は確実に自分を蝕んでいると実感があった。情報に自分が追い込まれているという感覚は生身の体を銃弾の飛び交う戦場に送り込むというそれに近い無謀さに近い。だからこそ、これ以上波の中に飛び込むのは危険だと判断したのかもしれない。

 

そうして辿り着いた情報の彼岸で、しかし考える頻度は増えた。自分にとっての自分とはなにか。自分が外に提供可能な価値とはなにか。自分が外から求められていることはなにか。やなせたかしも問うていた、「なんのために生まれて なにをして生きるのか」ということも。

哲学的で難解で正解などないとわかりきったような問いだが、これは同時に社会からの最終警告でもあるような気がした。これから、そういう問いへの「答え」を携えることのできない人間に、未来を享受する価値があるのかどうか、と。