猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

非モテの十字架

※本記事には「愛がなんだ」の本編に触れる内容がそれなりにあります。

 

 

いまさら、「愛がなんだ」という映画を見た。多分、深川麻衣さんが出演していなかったら一欠片も交わることがなかった作品だと思うので、めぐり合わせが本当に幸運だった。

 

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映画を見ている間、自分に巡っていたのはずっと共感と悲観だった。パーティーで待ち受ける孤立、誰とも知らない知り合いの集まりについていく一欠片の良心、いざというときに使い物にならない分身、全く根拠のない仄めかしや流言、剥離と塗布を繰り返すそれぞれの本心、好きすぎる人への独りよがりな罪悪感。
キャストのルックスと演技力で薄まっていたのかもしれないが、スクリーンの向こうに広がっていたのはまさに非モテの恋愛であり、もしなにかの掛け違いがあったら、まさに自分が経験していたかもしれない恋愛*1だったし、そう思わせるような魅力があの映画にはあった。ずっと腸を抉られているようなキリキリする感覚が続くような展開、でもどこかでそうなることを分かっているのに目を離せないというのはこの作品のそういうところから来ているのだと思う。おかげで観終わったあとはずっと吐きそうだった。

 

 

自分は今作のような誰かを好きで好きでたまらない、真っ直ぐな感情を持った恋愛を心の底から恐れている。それは自分が「なにかに全振りすることが不可能」だからだ。たとえ誰かと恋愛関係にあったとしても、たとえ恋愛以外の何かを楽しんでいるときであっても、それが壊れたとき、終わったときのことが(常にというわけではないが)頭の片隅にずっとあるのだ。そのときに「保険」をかけておかないと自分が自分を救えなくなるから、「楽しい」と思えるもの、お互いに「疎」なものを探して安住しようとするのだ。
劇中の彼ら彼女らにも、今の関係性と自分の感情で鬩ぎ合うところがある*2。親しい友人を信じることは簡単だが、恋する相手に仮託することは似ていることなのにずっと難しい。なぜなら相手が同じ気持ちにあるのかどうかの確率はそれよりずっと低いものだからだ。

 

おそらく非モテは恋愛において、そういうジレンマをずっと背負って生きていく生き物なのではないかと思う。恋愛する以上は相手に正対して向き合いたい、でも万が一の振られたとき、別れるとき、脈がないと分かってしまったときのあのときの痛みがするりと頭を過るとき、あのときと同じ苦しみに苛まれないように、なんとか別の埋め合わせを、うまく行かなかったときの別の避難口や安住地を見つけてやり過ごそうとする(ちなみにそのジレンマを脱却するときは非モテ→モテへの昇華を意味する)。

 

おそらく映画の主題とはだいぶそれるのだが、あの作品を見た帰り道はそんな事を考えていた。同じ十字架を背負いながら死ぬまで生きていく人間の一人として。

*1:あるいは、人によってはまさに過去を投影していたような恋愛

*2:例えば映画の終盤では、ヒロインの山崎テルコが、岡田守のそばにいたいがために自分の本心を覆い隠すような場面ががある