猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

死者の魂よりも先に、思い出が帰ってくる

職場の先輩(といっても1つ年齢が上というだけなので、ほぼほぼ同僚と言っても差し支えない間柄)から、彼の祖父が亡くなったという話を聞きました。100歳目前での大往生だったそうです。それまであまりプライベートに踏み込んだ話はしたことがなかったのですが、席も年齢も近いからなのか、話をする機会がぐんと増えました。祖父との思い出、幼少期の思い出、葬式の話、などなど。彼いわく、「話していると自分のとっ散らかった感情が収まる感覚がある」とのこと。なんとなくわかる気がする。

Twitterでもフォロワーさんがお葬式に行ったというpostを見たりして、そういったところに触れると、自然と自分がどうだったか、というのが思い出されるものなんですね。思い出せる範囲で書いていこうと思います。自分のためでもあるし。

 

 

自分の母方の祖父は既に亡くなっています。死因は未だにちゃんと知りませんが、老衰だったのだろうと思っています。
両親の祖父母はその祖父以外は未だバリバリ健康なので、ずっと会ったりしていて、それぞれに思い出もあるのですが、1番自分のことを甘やかしてくれたのは祖父でした。
東京に住んでいるので頻繁に会いに行きましたが、いつも満面の笑みで出迎えてくれ、一緒に遊んでくれました。
百貨店に行っては(祖父が)好物のうな重を食べさせてくれて、欲しいものがあれば買ってくれました。
誕生日や進学など、何かにつけてお祝いとしてお小遣いをくれました。
両親が特段厳しかったということはないのですが、誰よりも良くしてくれるので、祖父の家に遊びに行くのは何よりの楽しみでした。

 

怒ることも滅多になかった祖父ですが、唯一、烈火の如く怒ったところを目撃したことがありました。
それは、祖父の胃に悪性腫瘍が見つかったときのことで、この時親族(母とか祖母とか叔父とか)は開腹して切除してもらう手術をしようと話していました。(まだそこまでステージが進んでいなかったというのもあります)。
しかしこれに祖父は猛反対しました。祖父は「腹を切る」ということに対して猛烈な抵抗があったのです。

祖父はその5年前にも腫瘍切除を行っており、その時も反対しましたが、親族の説得の結果、「1度きり」という条件付きで受諾したそうです。その時の傷がお腹に残っていたのを見たことがあります。

そのため、母含む親戚陣は奥の手として、祖父が誰よりも可愛がっていたぼくを俎上に載せ、説得してもらうことで手術を受けてもらおうと考えたようです。そりゃ怒るわ。その後のことはよく知りませんが、結局そのままだったのではないかと思っています。

 

晩年は痴呆が進んでいて、呂律もだんだんと回らなくなっていきました。趣味だった散歩も杖がないと歩けないほど足腰が弱り、移動は電車やタクシーに頼るようになりました。
その頃になると、自分は祖父から目を背けるようになりました。目に見えて弱っていき、腫れ物のように扱われる祖父を直視するのが嫌でしたし、否応なく突きつけられる間近な「死」というものを咀嚼しきれなかったのかもしれません。祖父が壮健で、一緒に色々なところに出かけて遊んだあの頃に戻りたいと何度も思いました。

 

祖父が寝たきりになって、意識もぼんやりとするようになった頃は母が実家でつきっきりになって診ていました。
自分も何度か会いに行きましたが、そのたびに祖父は皺だらけの顔をさらにクシャクシャにして、自分の手を握ってくれたのでした。まともに会話もできないので、その頃の自分にできることといったらそれくらいでした。死ぬ前に祖父の前では泣くまいと思っていたのでぐっと堪えました。
ある日に会った後、突然今までの思い出が走馬灯のように駆け巡ると、いよいよというのが改めて身をもって感じられ、家に帰って部屋にこもって泣いていました。それは単に悲しみではなく、後悔や怒りの感情も綯い交ぜになっていて、あまりに大きい声をあげて泣くので父が心配して慰めてくれたほどでした。奇しくもその日は祖父が亡くなる前日のことでした。

 

祖父の最後は自宅のベッドの上で、報を聞いて駆けつけたときには口を閉じるために布で顔を巻かれ、(当たり前ですが)血色が恐ろしいほどなく、精巧に作られた造形物か何かかと見紛うほどでした。
手を握ると、生前の皺と無機物のような冷たさが同時に感じられ、違和感がありました。ただ、握り返そうとしてこないという事実によって、ようやく祖父の死を受け入れることが出来ました。

 

 

自分はある意味、祖父の本当の姿を知りません。第二次世界大戦中、中国方面へ出征していたこと。仏教の某宗の熱心な宗徒であり、総本山まで足繁く通い、生前戒名を貰っていたこと。実家が近畿地方の某県にあるのになぜ上京しようと思ったのか。仕事は何をしていたのか。全て葬式の宴席で祖母に教えてもらったことです。
死後、祖父の遺産は娘である母を通じて、ある程度まとまったお金という形で自分のもとに入ってきました。いまだにそのお金には手を付けられていませんし、今後もそうだと思います。祖父の膨大な本や衣服はほぼ全て売りに出されるか捨てられるかなどして残っていないため、形見と言える形見は何も貰っていなくて、それが無くなると自分と祖父をつなぐものが無くなってしまうような気がしたからです。
祖父の部屋は、今では祖母や親戚の物置と化していますが、自分は家に行くと今でもその部屋に入ります。埃の飛び交う薄暗い部屋ですが、ここと仏壇以外には、祖父の面影は残っていないので。