猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

オタクについて私観2017

以前から書いてみたいと思っていた「にわか論」と「一時他界許容論」。要は好きと嫌いについてのおはなし。

まとまっていませんが、書かないと書けないなと思ったので、そのまま書きました。ニュアンスだけでも汲み取っていただけたらうれしいです。

 

本記事内では便宜上、所謂エンタテインメントのあれやこれやをひっくるめて「コンテンツ」として表記します。
他にもっといい単語があるのだろうとは思いましたが、自分の語彙力ではこれが限界です。他に適した単語をご存知でしたら、こっそり教えてください。差し替えます。

 

にわか論

「懐古厨」という言葉があります。昔を賛美し、現在を貶しがちな人への蔑称です。なんだか変に一般化されてしまった言葉のような気もしますが、コンテンツが長続きすればするほど、どのコンテンツにも存在しうる層だと思います。

そもそも、懐古厨がなぜ懐古厨たりうるのか、といえば、コンテンツそのものが何らかの方向へ変化している(あるいは「した」)から、と同時に、懐古厨は昔あった、変化する前のコンテンツを肌で感じているからです。今の10代がバブル景気の頃を賛美していたとしたら、(それはそれで面白い気はするけど)それは史実に基づいた賛美であって、実体験としての賛美ではありません。そこに生まれる説得力は、実体験が生むオピニオンにはとても勝てないと思います。*1

そうでなくとも、世の中、特にネット界隈はコンテンツの「リアルタイム性」に拘る傾向があるように思います。

例えば音楽。とりわけ何年も活動を続けているアーティストの音楽については、スタイルの変容についてはどうしても賛否両論が噴出しがちです。あの時期のほうがよかった、あの出来事をきっかけに方向性が変わってしまった、など。
それらをリアルタイムで目撃していたかどうか、そのときにそのアーティストを応援していたかどうか、そもそも産まれていたかどうか、に至るまで、いろいろな物差しでファンはファンを峻別してしまうのではないでしょうか。
キャリアが長くなればなるほど、ファンの年代も多様化して当然ですし、それが混在して共存いることがファンコミュニティとしてあるべき理想の姿にも見えますが、おそらくファン歴が浅くなればなるほど、その人は「にわか」とレッテルを貼られ、対等に扱ってもらえないことが間々あります。*2

 

声優の話をしますと、自分が深夜アニメやラジオなどを通して、声優の存在を知ったのが2005年前後で、それ以前の声優オタク事情について詳しいわけではなく、推し量るしかないのですが、確実に言えるのは、受容の手段は今よりも遥かに限られていて、シンプルであったと思うんですよね。ファンとして応援するために何をしたらよいか分かりやすかった。
だから一つのコンテンツを深く、(現在では考えられないほどの)時間を掛けて知り、私財を投じて入手し、はまっていくという行為そのものが、当時のファンにとって財産であり、ファンであることの裏付けになっていたと思うのです。

今、かつてほどこういった時間をかける必要はなくなりました。*3空き時間や移動時間にアニメを見ることもできる、気になった音楽があればその場で買ってすぐ聴ける、などなど。
更に、コンテンツはもりもりと多様化・多態化し、ぼくたちは様々なコンテンツにどんどん時間を奪われるようになりました。何かにハマれば、何かが疎かになる。何かを選ぶということは、無数にある他の何かを捨てることになる。表現が乱暴ですが、様々に垂らされた釣り糸のなかから何を咥えるかという。
オタクという文化がかつてよりカジュアルになったのも、無関係ではないと思います。間口は広くなり、より気軽に足を突っ込むことができるようになった。それは他のコンテンツでも例外ではありません。

ぼくは「にわか」はなくならないと思っています。なぜなら、こういうコンテンツの消費形態に慣れてしまった人、あるいはそれを現在進行系で提示されているずっと若い人たちが、旧来の意味での「ファン」になるのは容易ではない気がするから。

 「広く深く」がいいよね、というのは当たり前ですが、先述したとおり、自分の中で全てを同じように併存させるのは難しく、どこかで折り合いをつけ、自分の中で優先順位に則って動かなければならない、広義でのサブカルチャー全般は既にそういう領域に達していると思います。

一時他界許容論

↑と繋がるところなのですが、現代社会において、コンテンツの数はかなり増え、ファンは分散化しています。ここ数年でどれだけアイドルユニットが誕生したでしょうか?ニコ生やSHOWROOMやAbemaなどなど、ライブストリーミングの普及で露出の機会もあちこちに増え、追いかけ続けること、「ファンであり続けること」は少しずつ難しさを増しています。

一つの顕著な現象が、相次ぐ声優さんのソロデビュー現象です。

 

huurai0.hatenablog.com

 

2016年、14人の女性声優さんがソロデビューを発表してあちこちで話題になりました。*4

声優さんが所謂アーティストとしてソロデビューする流れはずっとありますが、昨今多いと感じるのは、アーティストとしての素養*5を持った状態で業界に入ってくる声優さんが増え、個人としての知名度がそれほど重要視されなくなったから、寧ろ活動のアイコンとして早期に自分の曲、スタイルを提示することが活動がスムーズになる、ということなのだと感じます。ハードルが低くなったわけでもなんでもなく、ある程度即戦力として入社してくる新入社員のようなイメージでしょうか。

こういった声優というコンテンツを幅広く好きでいるファン(いわゆるDD)にとっては悩ましい時代になりました。アーティストデビューするとなれば当然イベントやライブで露出する機会も増えます。一気に続発することにより、DDからすれば、時間的制約・金銭的制約など、様々な理由から”絞る”必要が生じるのは当然のことだと思います。
でもやっぱり人間だから、手を出してみたけど、いろいろあって、「戻る」ということも、あるはず。ただ、少なからず葛藤はあると思うんですよね。
いや、そんなずべこべ言ってないで戻りたくなったら戻りゃいいじゃん、それはその通りなんですけどね。

 

ひとつ、実体験の話をします。

前の記事にも、その前にも書いたとおり、自分は横浜DeNAベイスターズのファンです。最後に優勝した年から応援し始めたので、そこから数えると20年弱になります。しかしながら、その18年間、ずっとベイスターズを応援していたかというと、そんなことは決してありません。
「ファンをやめる」というとかなり仰々しく聞こえますが、数年間、ベイスターズの野球を見るのをやめていた時期があります。
「もうやめる」と決めたわけではなく、気がついたら見るのをやめていた感じなのですが、かといって完全に離れていたわけでもなく、スポーツニュースなどを通して、勝ち負けであるとか、誰が活躍したといったベイスターズの状況は知っていました。なぜやめたのかといえば、単純に弱すぎたからでもあり、球団のベイスターズ愛が感じられなくなったというのもありました。
その間にベイスターズはいろいろなことがありました。内川や村田がFAで他球団に移り、ずっとネタにされるようなお粗末なプレーもあり、挙句の果てに球団自体が横浜からなくなるかもしれないとまで言われました。自分がベイスターズをまた応援しようと思い、戻ってきたときには、親会社はDeNAに変わり、監督はものすごく喜怒哀楽に溢れた人になっていました。
今、ベイスターズ横浜スタジアムで試合をするたびに、大勢のファンがスタンドを埋め尽くし、チケットは容易にとれません。これは数年前からすれば考えられないほどの盛況ぶりであり、選手やコーチ陣、そして球団スタッフの努力の成果でもあります。
しかしその裏には、あまりにもベイスターズが弱くて、あちこちの客席ががらがらだった時からずっと、スタジアムに駆けつけ、声をからして応援していたファンがいます。そういったファンの存在がなかったら、今こうして横浜にプロ野球チームが存在していたかどうか。それも確かにあるのです。
だからなのか、そういったファンの中には、その時代に応援していなかった奴は真のファンじゃない、チームを応援する資格はない、という人もいます。
その発言がどこから起因するものなのか。単にチームへの愛情なのか、自分が支えてきたという自負なのか、お前らもあの時の辛さを味わえというかなわない不公平感なのか。

こういった話は、ここに限らず、いろいろなところで起こりうるのではないでしょうか。コンテンツの息が長くなればなるほど、ファン同士の間で同一の価値観・物差しを共有することが難しくなっています。そういう中で、どういうコミュニティやつながりが生まれるのがよりよいのか、コンテンツの出し手だけでなく、受け手であるファンも模索する必要があるような気がします。

*1:今回の話とは別種ですが、たとえば戦争がそうであったように。

*2:もっとも、対等に扱ってもらえることが必ずしも良いとは限らない場合もありますが・・・

*3:ついでに言えば、金銭を掛ける必要もなくなりました。こっちの要因も無視してはいけないとおもいつつ、それはまた別の話。

*4:人数だけで言えば一昨年(2014)のほうが多いのですが、下半期に入ってデビュー発表が一気に集中したことなどが要因としてあるかもしれません

*5:たとえば歌唱力とかダンスとか