猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

どういうふうに教えてもらいたいかを考えながら仕事をする

月日が流れるのは早いもので、去年の春入社した新入社員がもうすぐ1年目を終えようとしていて、うちはまだ大きく動いていないのですが、4月からの新卒学生を迎え入れる準備をしている企業も大勢あるだろうと思います。
そのうちの端くれとして働いてきた自分にも、もうすぐ後輩ができる(かもしれない)わけで、そういう立場として最近考えていることがあって、それがこのサブタイです。

 

自らの"経験"に基づいてしか動くことはできない

例えば、ほかの人が作業をしていて詰まった。自分に質問された時、どういうアドバイスをするか。逆に自分がわからないことがあった時、どう対処するか。それは経験に左右される部分が大きいと思います。過去にはこういう方法で切り抜けた、解決したという、自分の中のノウハウに基いてまずは行動する。それでダメなら柔軟に。これがセオリーなのではないでしょうか。どこが問題なのかとか、そういうのを見抜くのもある意味ノウハウですから。

ググッて調べた知識はなかなか自分の中には入れづらい。同じエラーメッセージ、同じ症例で何回もググッてしまうとかよくやります。無駄だというのはごもっともですし、自分でもそうだと思ったことは一度や二度ではないです。逆に言えば、そこまでやらないと「ノウハウ」に昇華することはできないと思っています。どうやって回数を減らしながら効率よく吸収していくかは一つのテーマです。

とはいえ、仕事にはやはりケースバイケースのパターンって多いと思っていて(それが面白いんじゃないかという方もよくいらっしゃいますが)、過去の事例と微妙に食い違っていたりしてやきもきすることも多いです。
極端な話、同程度のスキルの人間であれば(或いはそれ以上であっても)、皆同様に詰まるというような問題や、悩ませるような部分ってあると思うのですが、それはやはり未来の後輩にとっても同じことなのだろうなと思い、簡易的でも症例と対処法はメモに残すようにしています。これはバイト時代からの個人的な慣習で、9割が自分のためです。
ただ、プログラマという仕事柄、今と全く同じ環境で他の案件をやるということもそうそうはないでしょうから、本当に参考程度です。それでも、今はまるようなところは割りと共通的にはまったり、他環境でも応用きかせて対処できたりするようなところが多いので、記憶補完として大いに貢献してくれるでしょう。

 

いろいろな人がいるよね

社員数十数名という小さな会社で働いていますが、その中でさえ接し方、教え方は人それぞれです。惜しげなく手取り足取り教えてくれる人もいれば、自分で悩んで答えをだして、そこからじゃないと身にならないという人もいるし、ヒントだけだして後は自分で考えてみよう、という人もいる。会社の規模が大きくなれば尚更です。
そしてさらに厄介なのは、教えてもらう側にも様々な相性があるということ。何でもかんでも教えてもらってもつまらないとか、躓くのがとにかく嫌で、すぐ教えてもらいたがるとか。
後者はよく言われるモンスター新入社員のパターンの一つだったりしますが、個人的な意見として、言うほど大きな問題では無いような気もしています。教えてもらったことをきちんと吸収できるという前提があった上で、ですが。*1ある意味用心深いということでもありますし、変なところいじられて致命的な問題に悪化させられるよりはまだいいかなと。知識が蓄積してくれば、それが自己解決に昇華するわけですから。

一つだけ言えるのは、会社が選べても上司が選べるわけではない。そことそりが合わなかったときに、じゃあどうするか。これはもう、合わせるしかないのでは?と思ったりします。しがみつくようにしてでも吸収して盗んで、それを(自分だったらこう教える)と置き換えてみるとかね。自分の職場も全員が全員そういう人間ではないので、教わったことや学んだことはそうする癖をつけています。蓄積した知識はアウトプットすることでより経験に近しく、忘れにくくなります。

 

質問することへの意識の変化

ある意味、社会人になってから自分の中で一番の発見だったのが、「質問する側にも技量がいる」ということで、求める情報のゴールになるのは「どうすればいいのか」でしょうが、そのゴールをしっかりと上司に理解してもらうには、「今何をしていて」「どうしたいのか」「どこで詰まっているのか」を明確にして話す必要があります。前提にずれがあると情報を得たところで機能しないことが多いからです。
これは今まで未経験だったので、最初かなり戸惑いました。(こんなの当たり前やろ)と思う方も大勢いらっしゃるかもしれませんが、やはり自分の考えを相手に伝わる形で言語化するのはすごく難しい。これは質問する側にも答える側にも言えると思います。常にディスプレイを突き合わせながら仕事ができるわけでもないですし。

どう教わりたいか≒どう教える人間になるか

うだうだ書いてきましたが、個人的に思う'教えることの究極'は「その事柄に関してなにも知らない時の自分が理解できるような教え方」だと思います。なにも知らない人に対して教えるというのは、それを教える側がちゃんと知らないと難しいですからね。

そして、そのベースがどこから来るかというと、やはり自分がどう教わってきたか、ではないかと。
どの見方で、どのレベルまで物事を砕いて、どこまで教えるのかは、教わる側の適性や技量を見越した上で、教える側の手腕ひとつで決まるものです。その手腕を磨くのはやはり教える側が過去に様々教わってきた「経験」に基づくもので、一筋縄の問題ではない。
いずれの職に就いたとしても、いずれは直属の部下が来ます。教えてもらっているうちから

「自分はこう教えてもらったが、どういうふうに教えたらもっと理解してもらえるだろうか」

とこっそり考えるのは、発想を広げたりあやふやなところをあぶり出してくれるかもしれませんし、引き出しを広げる一つの手段としてありなのではないでしょうか。と思った昼休みでした。

*1:それができないからモンスターとかいわれてるんだろうけど