猫も杓子も記事を書く

140文字ではかけないことをかこうと思います。

非運転免許証所持者差別がなくなる世界

「本人確認書類を提示してください」と言われたら、たいていの人が運転免許証を出すと思う。以前そういうオペレーションを客に対してする側だったのだが、肌感覚で8割ぐらいが免許証を出していたと思う。*1

運転免許証は本人確認する側にとっても好まれる、過不足ない書類であることは間違いない。住所・氏名・生年月日を記載する欄があり修正があったら裏に書けばいい。顔写真も写っていて、何より固有の番号が印字されていてそれを控えておけば確認したことの何よりの証明になる。

唯一のデメリットは取得するまでのコストのバカ高さだ。運転免許証を取るためには教習所に入らなければならず数十万を払わなければいけなくなる。車を運転する予定のない者にとってその費用は果たして免許証という本人確認書類の発行料でしかないのだ。いくらなんでも身分証に数十万払うの馬鹿馬鹿しすぎるでしょ・・・

 

そういう「運転免許証に価値を見いだせない者」の代替手段が健康保険証であり、住民基本台帳カードであり、パスポートである。ただし、

  • 保険証には顔写真が書いてない
  • 住基カードには固有番号がない。あともう発行してもらえない
  • パスポートは海外行く用事でもないと作らない。作るの死ぬほどめんどくさい

どこかしらに瑕疵があって、なかなか運転免許証と同等の扱いを受けているとはとてもいい難い。おまけに新たに作られるマイナンバーカードはマイナンバー法で収集や記録が制限されているためにオンライン上での本人確認書類として使えないときた。めでてーな。

 

「非運転免許証所持者差別」というのは、免許所持者からというわけではなく、国から(おそらく)意図せぬ形で差別を受けているということでもある。マイナンバーの代わりに適当な一意の番号*2を記録した、ICチップの入ったカードタイプの証明書を作ればいい。というか作ってくれ。全国民に配布してくれ。

 

*1:残り2割の殆どは保険証か学生証、わずかに住基カード

*2:もはやuuidでよくね?

わたしと箱根

中学生ぐらいまではよく旅行で箱根に行っていた。父の会社の系列の保養所があって安かったからだ。
ある時からぱったりと行かなくなった理由を親に聞いたら「子供たちが楽しくなさそうにしていた」からという、なんとも身勝手なような理由だったけど、今思い返せば、記憶のはっきりしない頃も含めて優に10回以上は箱根の地を踏んでいるはずなのに特筆すべき思い出が一度もない。毎回のように決まりきったルートで黒たまごや海賊船やテニスとくれば特別感も薄れるか、なんて思いつつ我ながらなんて親不孝な人間だろうと思う。
そもそも箱根はそれほど子供に優しくない。特に行きたい場所があったわけでもないが、小中学生が温泉や彫刻やベゴニアやフランス式庭園ベネチアンガラスや神社になんの楽しみを見い出せば良いのか。自分たちの楽しみと子どもたちの享楽を天秤にかけた苦肉の策だったのかもしれないが、当時の自分たちは知る由もなかった。

 

それでも箱根が好きだったのはロマンスカーによるところが大きいのではないかと思う。展望席という存在は自分にとって特別で、無機質で有機的な東京のコンクリートジャングルや高架を抜け出して眼前に広がる線路と山と空と川、すれ違う無数の電車たちはまさに非日常そのもので、ロマンスカーはそこに連れ出してくれる言うなればカボチャの馬車だった。
それを(流石に毎回ではないが)死に物狂いで取ってくれた両親の情熱には感謝しかない。心からの思いは言わずとも伝わるのだ、という迷信を自分が頑なに信じ切っている理由はそこにある。

 

あの頃の思い出の詰まった11時新宿駅発のスーパーはこね17号箱根湯本行は今はもうない。そもそも新宿を出てしばらく、前のステンレスたちにつかえながらノロノロと走る姿はロマンスもへったくれもないし乗りたいとも思わせてくれない。しかし、歳を重ねるたびに彼の地を憧憬してやまないのは、自分が今の半分くらいの年の頃に見つけられなかった純白に輝く城が、今なおあそこにあると信じているからではないかと思う。

 

 

友達の家の匂い

小学校に入る前は団地に住んでいた。現代みたいな高層マンションもなく、4階建ての集合住宅が幾つも密集した、一般的イメージとして想起される団地。今でこそ周辺にはファミレスやらドラッグストアやらなんやらいろんな施設が建っているが当時は野っ原で、また自分と同世代の子供がたくさんいたということもあり遊ぶことには困らなかった。まだDSもゲームボーイアドバンスもなかった頃の話。

その頃に自分は人生で初めて、友達の家に遊びに行くというイベントを経験した。強烈に覚えていることが幾つかあって、一つはその日が月曜日であったということ。通っていた幼稚園がキリスト教のそれだったので、日曜日に礼拝の通園がある代わりに月曜日が休みだった。その友達も同じ幼稚園だったので休みが同じだったのだ。

そしてもう一つは、家にお邪魔した瞬間に鼻腔を突いたあの独特で強烈な匂いだ。自分は初めて嗅いだ匂いであるにもかかわらず、その匂いを即座に「人の家の匂い」とカテゴライズした。その家中に広がる香り、何がわかるわけでもないけど生活感を感じる匂い。

いまでもあの匂いは何だったんだろうと思う。芳香剤や柔軟剤でもない*1、いい匂いでは決してないが不快な匂いではない、言語化できないあの匂いは。

それ以降も、友達の家に限らず、自分の家以外に行くとたいてい「その家のにおい」がするのが面白いなと思っていた。最も興味深いのは「その家のにおい」はその家によって大なり小なり違うのだ。初めての家に上がると必ずと言っていいほど嗅いだことのない「その家のにおい」がする。同じ匂いは一つとしてないのだ。特に社会人になりたての頃は仕事絡みで度々人の家に上がったことがあって、サンプルに触れる機会は多かった。

さらにファブリーズなどの芳香剤ではある程度誤魔化すことはできるかもしれないけど絶対に隠しきれない。その家にその住人が根ざしてきた生活によって定着する匂いだから(おそらく)、やるだけ無駄なのだ。まあマナーの一種だよなとは思う。

ちょっとずれるがコンビニに入ったときのなんとなく化学物質っぽさを感じる匂いもあれはあれで興味深い。多分エアコンか何かから発せられる匂いなのだろうけど、あれの面白いところはコンビニチェーン間で差はあれど、セブンならセブン、ファミマならファミマ、ローソンならローソンという風にたいてい同じような匂いがするのだ。立地も建物もまるで違うコンビニなのに。ただあれは個人的に嗅ぎ続けていると気分が悪くなるのであまり好きではない。

ちなみに友達の家でやったのはプレイステーションクラッシュ・バンディクーだった。起動した後のヴィーンという当時5歳の自分を恐怖の淵に叩き込むサウンドロゴ、ロード時間の長さ、コントローラーのボタンの多さは今も記憶に刻まれている。

*1:あの匂いを忠実に再現した芳香剤があったら買うけど

ジムの悩み

自分ぐらいの年代だと「ジム」という単語を初めて聞くことになるのは十中八九ポケモンなのでしょうね。まあそれはいいです。

 

ここ数年まともに運動してこなかったツケがたまってきて体重も脂肪も増え、このままだと悲惨な中年を迎えること間違いなしという事態になっています。個人的に衝撃だったのはお腹周りよりもおっぱい(胸に脂肪)がつきだしたことです。女性のそれとは比べるべくもありませんが走ると確かに揺れている感覚があります。やばい。なのでいい加減運動する習慣をつけないと。日常的な運動(歩くとか、階段登るとか)だけでは限界があります。

 

大学時代、水泳サークルで泳いでいたこともあって運動するなら水泳という選択肢が一番抵抗ないかなと思います。難点は場所が少ないこと、公営施設だと大抵月曜日が定休であること、地元のジジイババアの溜まり場になっていて満足に泳げないこと、在住在勤などで価格差別があること、夜遅くまでやってないことです。

 

どうでもいいですが水泳ってイニシャルコストが数あるスポーツの中でかなり低いほうなのではないか?と最近思います。必要なのは耐塩素性の水着(1 ~ n着)とゴーグルと水泳帽とセームタオルとバッグ、以上。おそらく10kもあれば十分です。いわゆる大会とかでアスリートが着るような高速水着だともうちょいお高くはなりますが。*1

 

閑話休題

 

機材を使ったトレーニングとかもありますね。一般的なジムに置いてあるようなアレ。ああいうのは筋肉を鍛えるためにあるようなものなので我流で腕立てや腹筋をやるよりも高い効果が得られるであろうし何よりやってる感が違います。ただでさえ筋トレというのは苦行なのでどうせなら充実感を得ながらトレーニングしたい。一通り揃っているので、最初は「お腹の脂肪をなんとかしたい」という目的であっても気分で腕とか足とか鍛えることもできます。

難点と言ったらまあ高いこと。たいていジムに入会するということは月万近く払い続けるということであり、これは相応の覚悟が必要になります。あとはマシントレーニングは闇雲にやってても効果は得られないのでインストラクターさんと相談しながらやることになるのでしょう。

 

ごくごく稀ですが、プールが併設されているジムもありますよね。もしジムに入るという選択肢をとるならそうした施設を狙って入るのが一番の理想です。そんなとこめったに無いけど。

*1:ミズノだとこれぐらい。

www.mizunoshop.net

雑談

自分が長らく応援している声優さんのファンクラブは、一律で5月の末が会期の切れ目となっています。いろいろなファンクラブに入ったり抜けたりを繰り返している自分としては、こういうシステムは珍しいのではないかと思いつつ*1、ともあれ活動を止めることも終わることもなく、まだ応援できるというのは嬉しいことです。

というかこれだけ栄枯盛衰の声優業界にあって、10周年の武道館ライブはもちろんのこと、これだけ長く(しかもきちんと表立った形で)活動を続けるということはある意味奇跡的なことなのではないでしょうか。自分がこの沼に飛び込んで最初に好きになった人ならなおさらです。センテンススプリング的にお漏らしされてしまいましたが交際中であることもあり、現在を起点に考えたらこれからの活動期間のほうが短くなるのは間違いないので喜びを噛み締めながら過ごしていきたいと思います。

 

 

あとこの時期になると思い出すのは坂井泉水さんの命日だということで、もう10年以上経っているということにびびります。自分がZARDを聴くようになったのは彼女が亡くなった後で、ZARDの生のライブを見ることはすでに叶いませんでした。今でも人生最大の後悔の一つです。

不謹慎かもしれませんが5月27日という日付は向日葵がすきだったという*2彼女にぴったりだなとおもいました。彼女の歌とともに夏の訪れを感じます。

*1:たいてい入会月から1年ごとに更新というパターンじゃないかと思います

*2:そんな記述をどこかで見かけたのですがネットにもウィキペディアにも書いてなかったので嘘かもしれません。でも前に献花台に行ったときは多くのファンが向日葵の花を手向けていらっしゃったのであながち嘘とも思えない。

記憶の引き出しを自在に

最近、定時20分ぐらい前に出社して好きなブログを巡回するのが癖になってしまっている。

Twitterとかと違うのは、ブログはいたるところにその人がにじみ出ているということ。文体・文章構成・タイトル・デザイン・画像の有りや無しや・・・アフィリエイトやバズらせることを目的にやっている人でも、然り。ブログというのは、広大なインターネットの世界にあってその人のために存在する空間みたいなもので、誰でも自由に作れて、カスタマイズできる。だから人が出るのだろう、と思っている。

そうして巡回しているうちに、生駒里奈さんの卒業コンサートの感想がしたためられたブログを見つけた。自分は諸事情あって行けなかったので、ファン目線から書かれた記事というのはとてもありがたかった。

ふと、とあるブログのことを思い出した。

東京ドームのライブが行われたあとすぐぐらいに出会ったブログで、そのブログ主も乃木坂のファン、とりわけ、そのライブで卒業した伊藤万理華さんのファンだった。と記憶している。そして彼女が卒業した後も乃木坂のファンを続けていく、というようなことも書いてあったと。

曖昧な表現になっているのは、そのブログがなんて名前で、どこにあるのか、思い出せないままでいるからだ。ブックマークするのを失念していたため、手掛かりが何もない。

数ヶ月前に見てそれきりだったから、脳はそこまで重要じゃないだろうなと判断したのかもしれない。まあでも、重要であろうがなかろうが、数ヶ月前に見てそれきりだったら忘れているような気もする。ただ、思い出せないままであるという事実が頭の片隅に引っかかり続けているというのは気持ち悪いし、多分このこともいずれは忘却の彼方へ消えてしまうのかと思うと若干の恐怖がある。

 

・・・仕事しよ。